トップページ 仕様 対応車種 購入 サポート


Google Play から無料でダウンロード!

Free !

OBD Driver
OBD Driver Free をダウンロードする





OBD Driver 開発者 石田和久のプロフィール(詳細編)

石田和久の代表作(抜粋)


スペースハリアー ( PC-8801mk2SR )
Copyright SEGA/電波新聞社


ガレージ石田 ( 車いじり )




小学校時代

ガキの頃から機械いじりが好きだった。 今で言うならインドア派か??

電車・蒸気機関車
ハマった! 図鑑や雑誌を見て、電車の型式や特急のヘッドマークなどを色々覚えた。もちろん、家の近くの東北本線を走る電車も良く見に行った。特急はつかり等の青い寝台特急が好きだった。
実を言うと新幹線よりも蒸気機関車が好きだった。つばめマーク入りの C62-2 が好きだったが、何故か C56C58 というマイナーな中型機関車が好きになった。
蒸気機関車は図面も良く描いた。ピストンやらシリンダーやら図面を手書きして、大人になったら絶対に動く蒸気機関車を作る!などと勝手に思っていた。

プラモデル
マブチモーターで動くプラモデルで良く遊んだ。
友人たちと公園一周リモコンカーレースなどをしていた。マブチ140モーター(だったと思った)のコイルを自分で巻いて、直流6Vを流して遊んだ。
この頃から市販のプラモデルではなく、ギアボックスなどを自分で買ってきてリモコンカーを自作したりした。田宮模型には色々と面白い商品があって随分遊んだ。

天体
本屋で買ってきた天体の本を良く読んだ。ミザール望遠鏡(屈折式の口径60mm)を買ってもらって、宇宙には色々な星や星雲があって広いんだな〜、それに比べて地球はなんて小さいんだ〜、などと考えさせられた。今でもアンドロメダ大星雲には行きたいと思っている。

電子工作
子供の科学という名前だったか、雑誌を買って、その広告にあった電子オルガンを神田まで行って買ってきて、半田ゴテを握って作った。
音はただの「プー」で、和音はなく、3オクターブしか出なかったが面白かった。このとき買った半田ゴテは今でも使っている。(30Wだが)
その後、FM電波を使用したFMワイヤレスマイクや、自宅の屋根に針金アンテナを張り巡らせた鉱石ラジオなどを作った。鉱石ラジオは何故かモスクワ放送しか受信できなかったのだが・・・。

ラジコン
これもハマった。エポック社(だったかな?)の「デジカスタントバギー」なるラジコンを買ってもらい、ガンガン走らせた。ニカド電池も同時に買ってもらい、充電して電池が何回でも使えるのは便利だ~、などと思っていた。
もちろん、改造にも挑戦した。デジカスタントバギーは、動力にマブチ280モーターを2個積んでいた。それはそれでパワーがあったが、ラジコン雑誌を見ると、マブチ360モーターや540モーターが誌面を騒がせていた。
改造して、そのパワーを味わってみたい!と思ったのだが、モーターの大きさの違いは明らかで、モーターを取り付けるにはギアボックスを金属加工しなければならず、断念した。
それでは、と、ラジコンカー側のモーター駆動回路をいじり、パワートランジスタの換装などをやってみた。が、小学生の私にはトランジスタの基礎知識などこれっぽっちもなく、パワーアップはおろか、パワーダウンしてしまい、まともに走らなくなってしまった。
デジカスタントバギーは、二度と元気よく走ることはなかった・・・。

ラジコンのエンジン
ラジコン技術という雑誌の影響もあって、電動ラジコンの次はエンジンだ!と、無謀にもエンジンを買ってくる。ひまし油を燃料にして、グロープラグ(点火プラグ)にバッテリーを繋いで、プロペラを指でブルンブルン回して始動して遊んだ。
小さいエンジンだが、パワーと迫力は満点で、スロットルを全開にすると小さなプロペラでも扇風機の何倍もの風力が得られた。これは面白い!
それでは・・・と、このエンジンを自転車の荷台に取り付けて、風力自転車を作ってみた。エンジンは何の問題もなく取り付けられたが、問題はスロットルの開閉方法だった。
スロットルを開閉するには、エンジンにある小さなレバーを動かせばよいのだが、自転車に乗った状態で自分の後ろ(しかもプロペラの向こう側)にあるレバーを手で操作するのはできなかった。今考えれば、ブレーキのケーブルなどを引き回して使えたかも?などと思うが、当時はそこまで発想できなかった。
よって、風力自転車での全開走行は実現していない・・・。小学生の頃は体重が軽かったので、もしかしたら走ったかもしれない!?

鳥人間
ラジコンエンジンを回して遊んでいた頃、週末はよくラジコン飛行機を見に行った。
家から自転車で30分程の田んぼにラジコン飛行機場があって、大人たちが自慢の飛行機を飛ばしていた。それをよく見に行った。大人になったら僕も飛ばすんだ・・・、などと家で飛行機の図面まで書いたりしていた。その図面を元にベニヤ板で作った飛行機は、できあがったらかなり重くて、これでは飛ばないな・・・と子供心に理解していた。
そんな時、近所のスーパー西友に家電製品の梱包用と思われる廃ダンボールがたくさん置いてあり、おじさんに譲ってもらい何枚かもらってきた。
このダンボールを使って、自分の両腕に付ける「翼」を作った。鳥のように素早く上下に羽ばたけば飛べるんじゃないか?でも上から下へ羽ばたくのはいいが、下から上に羽ばたいたら自分は落ちちゃうんじゃないか?などの疑問を持ちながらも、「翼」の製作は進んだ。
が、もうすぐ完成というある日、突然「翼」が家の中から消えていた。どうやら両親が危険を察知したらしく、製作途中の「翼」を処分してしまったようだ。実験ができなかったのはちょっと悔しかったが、たぶん飛べなかっただろう、と勝手に理解し、それ以後は「翼」を作っていない。

パソコン
小学校4年生くらいだったか、本屋で電波新聞社のマイコンという本を買う。これが初めて買ったマイコン(パソコン)雑誌だった。それまではマイコンなんて全く知らなかった。
早速、近所の電気屋さんに行ってみると、PC-8001MZ-80 などが置いてあった。
雑誌を買ってきて、電気屋さんのこれらパソコンでプログラムを指一本で入力し、F5(RUN) して遊んだ。
当時はプログラムの記録にはオーディオカセットテープを使っていた。ピーギャラギャラ〜、という音は何回聞いたことやら・・・。600baud より 1200baud の音が心地よかった。
学校が終わるとカセットテープと雑誌を持って電気屋に行く、というのが日課となった。
そんなパソコン少年が何人も居て、自由にパソコンを使わせてくれた電気屋さんには感謝・感謝である。
当時のプログラム言語は BASIC であるが、雑誌のプログラムを入力し、あちこち改造して遊んでいた。そうするうちに自然とプログラムを覚えて、簡単なゲームを作れるようになった。


中学校時代

相変わらずパソコン少年である。まだカセットテープである。
が、大宮にあったパスコット・インという NEC のお店で、初代 PC-8801 とフロッピーディスクに出会う。
フロッピーディスク? すげぇ、プログラムのロードが一瞬だ! cload じゃなく load だ! でも44万円ってなんだ!と、感動する。PC-88 のフロッピーディスクは縦型の8インチディスクだった。が、その後フロッピーは5インチ(正確には5.25インチ)もあるというのが分かるが、これも30万円以上した。中学生の私にはディスク装置はおろかメディアさえも手が出せなかった。
相変わらずカセットテープを使っていた。
この頃よりマシン語(機械語)に興味を持ち始める。CPU は機械語で動いているんだなぁ。Z80A? uPD780C-1? ん〜?

中2のとき、やっと貯めたお金で PC-8001mk2 とグリーン・ディスプレイを買う!
学校から帰っては、色々いじる日々が始まる。BASIC では飽き足らず、BASIC の mon コマンドで Z80 機械語をハンドアセンブルして16進コードを入力し、遊んでいた。BEEP 音を高速でON/OFFさせたり、カセットテープ制御リレーをカチカチさせたり・・・。
今でも Z80 アセンブラは得意中の得意。3E 20 D3 40 など〜。


高等学校時代

遂にハードウェアにまで手を出し始める。
自分の持っていた PC-8001mk2 に後継機 PC-8001mk2SR が発売され、そのグラフィックの性能の良さに憧れた。で、市販の GDC ( Graphic Display Controller : uPD7220 PC-9801 に搭載されていたLSI ) ボードを PC-8001mk2 の拡張スロットに入れて、外部ディスプレイで 640x200 dot 8 color を出して遊んでいた。GDC に LINE コマンドなどを送り、絵を描いたりしていた。
が、このボードでは GDC にコマンドを送って描画をするため、アクションゲームなどの高速描画には向いていなかった。

そこで SRAM と TTL を多用した、グラフィックボードを自作した。設計では、PC-8801 のバンク切り替えと同じメモリ空間にした。そうすれば PC-88 のゲームが遊べる!と思ったからだった。一応、ボードは完成し、外部ディスプレイにそれなりに表示できた。(表示ノイズは激しかったが)PC-88 のゲーム Zenon などをして遊んだ。

この頃、高校の先輩からパソコンでアルバイトをしないか?との誘いを受け、大宮にある呉ソフトウェア工房に通い始めることとなる。実は呉ソフトの社長さん(呉英二さん)は、私の中学時代の理科の先生だった。それが縁で、現在も色々とお付き合いをさせて頂いている。
呉ソフトでは、PC-8801mk2SR 用ゲームのディスク制御プログラムや、音楽演奏プログラムなどを作った。同社のアクションゲーム「ガンマ5」では、なんと私が作曲した BGM が使われた!当時あった「テクノポリス」というパソコン雑誌のガンマ5紹介記事で、「派手目の BGM には好感が持てる」と、たった1行だが褒められたことが大変嬉しかった。

この頃、久々(数年ぶり)にゲームセンターへ行き、SEGA のスペースハリアーに出会ってしまう!
ゼビウス以来、ゲームセンターから足が遠ざかっていたが、久々に新しいアーケードゲームを見て、時代は進んでいるなぁ、と感心してしまった。縦や横のスクロールゲームが、奥行きのある(擬似)3Dゲームへと変わっていた。
スペースハリアーは無理としても、これを真似したゲームを作ってみたいなぁ、ということで、自作の擬似3Dゲームを適当に作り始める。(何故か PC-8001mk2SR 用)
適当に作り始めて、大体動きができたところで、電波新聞社から PC-6001mk2 用のスペースハリアーが発売される。キャラクターを四角にするなどしてグラフィックは簡略化されたが、そのスピード感は本物に近いできであり、かなり衝撃を受けた。「このグラフィックでスペースハリアーと名乗れるのなら、私が自作してる擬似3Dゲームでも、スペースハリアーとして売れる?」との思いから、呉ソフトを通じて電波新聞社に問い合わせをしてもらった。
すると、PC-8801mk2SR 用スペースハリアーの移植を依頼され、正式に開発がスタートした。

移植、と言っても本当はゼロからの開発であった。プログラムはもちろん、敵の動きのデータや BGM データなども、ほとんどを自分でゼロから作った。敵の動きなどは、本物のスペースハリアーのゲームを見ながら覚えてデータを作ったし、BGM は曲を聴いて楽譜に落としてデータを作った。(所謂、耳コピ)SEGA から頂戴したデータはキャラクタデータだけ。ただ、足りないデータも多く、一部は自分で描いた。

アーケードのスペースハリアーと移植対象の PC-8801mk2SR では、ハードウェアの力の差が明らかだった。アーケードは、モトローラの MPU 68030 が2個と BGM や効果音用に Z80 が1個使われており、しかも画面のキャラクタは専用のスプライト回路で表示しているので、キャラクタ描画なんて楽チン!
一方の PC-8801mk2SR は、Z80 4MHz 1個で全てをやらなければならない。しかもスプライトなんて贅沢なハードはナシ!移植そのものに無理があったのだが、スペースハリアーを自宅で遊びたい、との一心で開発を続けた。

スペースハリアーは、あの迫力(スピードやキャラの大きさ)があってのゲームなので、スピード感やキャラのデカさには一番こだわった。特にスピードは、Z80 をしゃぶりつくすようにクロックを削った。キャラクタ描画に LDIR より LDI を並べたり、地面の描画は PUSH 命令を並べたり・・・と。今でも Z80 アセンブラは得意中の得意!

当時の Z80 アセンブラの開発環境は CP/M である。CP/M には、PC-98 の MIFES のような使い易いテキストエディターが無かった。Word Master とかはあったが、使い勝手は MIFES には遠く及ばなかった。
そこで、CP/M をベースにした PC-8801mk2SR 専用のテキスト・エディターを自作して、これでスペースハリアーを作った。自作エディターは E80 と名づけて、MIFES を真似して色々と機能を追加していった。この自作エディターのお陰で?、スペースハリアーの開発は順調に進められた。
Z80 のアセンブラは CP/M 上で動作する M80 というアセンブラを使った。これは、当時はまだ小さな会社(だったであろう)マイクロソフトのアセンブラで、大きなプログラムはアセンブルが非常に遅かった。SLR ASM (だったと思った)というアセンブラが登場し、アセンブル速度が非常に速くて感心した。


当時、私が持っていたパソコンは、超マイナーな PC-8001mk2 と PC-8001mk2SR であった。市場に流通するゲームの主流は PC-8801mk2SR であり、私のパソコンでは遊べないゲームがほとんどだった。
そこで、PC-8801mk2SR のゲームを PC-8001mk2SR で動かせるよう、ハードウェアの改造に挑戦した。88SR と 80SR のハードはほとんど同じような構成だったが、一番の大きな違いがグラフィックメモリのアドレスである。
88SR は 0C000H 〜 0FFFFH の16kバイトをRGBでバンク切り替えするのに対し、80SR はアドレスが 8000H 〜 0BFFFH となっていた。ちなみにバンク切り替えのI/Oポートは、両者とも 5CH,5DH,5EH で同じだった。
そこで、80SR の CPU と基板とに間に、Address14 番信号を 反転する回路を入れ込んだ。これの意味するところは、80SR に 88SR のゲームを読み込ませて動作させると、CPU が 0C000H 〜 0FFFFH をアクセスすると、A14 信号が反転されるので、基板には 8000H 〜 0BFFFH へのアクセスとなる。
これで、88SR のソフトをいじることなく、80SR のグラフィック画面にキャラクタなどを描画できるようになった。88SR のゲーム、シーナなどが 80SR で動いた。が、やはり動くゲームは少なかった。


この頃、電波新聞社から PC-8801mk2SR に関する本を出さないか?とのお話があり、呉ソフトの社長さんと私との共著で本を出すこととなった。私が担当したのは、PC-8801mk2SR で機械語での音楽演奏する方法や、ディスク制御の方法などであった。
当時はまだワープロなどが一般的ではなく(あるにはあったが)、原稿は全て手書きだった。懐かしい400字詰めの原稿用紙を何枚も使った。あれほど沢山文字を書いたのは、あの原稿が最初で最後ではなかっただろうか・・・。
無事に出版された本であったが、この本が本屋に置いてあるのを見たことが無い・・・のは私だけではあるまい。いや、ちゃんと売られていたようです。


これは構想で終わってしまったが、高校の友人とゲーム BIOS を作ろう!と、話が盛り上がったことがあった。
ゲーム BIOS とは、早い話がゲームの処理に特化した BIOS である。当時、世の中に出回っていたパソコンは、ハードウェアの作りに共通性が無かったため、PC-8801mk2SR 用に作られたソフトは、当然ながら他のパソコンでは動かなかった。
このため、例えばゲームを作る場合も、NEC PC-8801mk2SR 用と SHARP X1 用では、別々にプログラムを作る必要があった。幸い、8bit パソコンの CPU は、Z80 または 6809 が主流で、PC-8801mk2SR も X1 も Z80 が使われていた。(正しく言うと PC-8801mk2SR の CPU は uPD780C-1 という NEC 製だが、中身はほぼ Z80A だった。)
そこで、各パソコンのハードウェアの違いを吸収する「ゲームBIOS」を各パソコン用に作り、その BIOS の上で共通のゲームプログラムを動作させれば便利なのではないか? という構想が持ち上がった。
具体的には、ゲーム BIOS を PC-8801mk2SR 用、X1 用と作っておいて、それぞれのパソコンで動作させる。次にこのゲーム BIOS を使ってゲームの共通プログラムを作れば、各パソコン用に専用プログラムを作る必要が無くなる。
例えば BIOSに、「画面の任意の座標に任意の大きさのキャラクタを描画する」や、「ディスクのトラックn、セクターm からxバイトをアドレスaに読み込む」等の入出力サブルーチンを備えておけば、ゲームプログラムは直接ハードウェアを制御する必要が無くなり、BIOS を呼び出せばよい。
こうすれば異なるパソコンで、共通のプログラムでゲームが作れるようになる!と夢は膨らんだ・・・のだが、構想だけで実際には作っていない。もし完成していたら、日本のビルゲイツになれたか・・・いや、無理でしょう。


高校時代の大事な時期をスペースハリアーの開発に費やしてしまった私は、案の定、大学受験に見事失敗し、専門学校へ進むことになった。


専門学校時代

アルバイトで貯めたお金で、PC-88VA を買う。これまたマイナーなパソコンである。

88VA を動作させるのは PC-Engine という DOS だった。これは MS-DOS の一部機能を省き、88VA の機能を追加したような DOS だった。
しかし、世の中は MS-DOS の時代である。88VA でも MS-DOS のプログラムが使いたい一心で、88VA 用の IO.SYS を作った。(IO.SYS は、MS-DOS を動作させるプログラムのこと)これで 88VA で、MS-DOS Ver 2.11 が動くようになり、MASM などを使って、8086 のプログラミングを楽しんだ。(88VA 専用設計の PC-Engine などではなく、始めから MS-DOS をリリースしてくれれば良かったのですが・・・NEC さん。その後、NEC が 88VA 用の MS-DOS を出したようだが使ったことはない)

88VA で MS-DOS が動くようになると、使ってみたくなるのが MIFES である。 MIFES は、メガソフトが PC-98 用に作った高速テキストエディターである。その使い勝手は抜群で、一度使ったらやめられない程である。
MIFES は、MS-DOS では掟破りの方法で文字を表示していた。通常、MS-DOS で文字を表示するには、MS-DOS の INT 21H を介さなければならないが、MIFES は文字を高速表示させるために、PC-98 のテキストRAM に直接文字コードを書き込んでいた。PC-8001 や PC-8801 時代では、これは一般的な文字表示のやり方であるが、MS-DOS ではご法度だ! でもこのやり方があってこそ、高速動作が可能になっている。

前置きが長くなったが、この MIFES を 88VA で使うには、1.テキストRAMのアドレスを 88VA に合わせる。 2.テキストRAMのアトリビュート属性(文字の色や反転等を指定する属性)を 88VA に合わせる、の二つが課題となった。
1は MIFES のバイナリーコードを改造して、PC-98 のテキストRAMアドレス(実際にはセグメントの設定)を、88VA のそれに書き換えた。
問題は2だった。PC-98 のテキストアトリビュートを 88VA のそれに変換するのは、バイナリーコードの改造ではどう頑張っても不可能だった。そこで、88VA の拡張スロットに自作の変換ボードを入れて、何とか解決した。変換ボードでのやり方はこうだ。
MIFES が PC-9801 のテキストアトリビュートRAM の領域に何かを書き込もうとしたら、変換ボードが CPU にハードウェア割り込みをかける。割り込み処理で、書き込もうとした値を 88VA のアトリビュートにビットを配列しなおして割り込みを抜ける、というものだ。
これはそこそこ上手くいった。88VA で MIFES が使えるようになった。が、88VA と PC-98 ではテキスト表示の LSI が違うため、本家 MIFES とは多少の色の違いがあったが、そんなのはどうでも良かった。専門学校の先生には、「この MIFES なんで色が変なの?」と、よく言われたものだが・・・。


スペースハリアーの開発はまだ続いていた。
偶然にもアーケード版スペースハリアーの音楽と効果音はヤマハの YM-2203 で鳴らしていた。偶然と言ったのは、この YM-2203 は、PC-8801mk2SR にも使われていたからである。だから 88SR 版スペースハリアーのサウンドは、本物そっくりにしなきゃ・・・との思いがあった。
運良く、電波新聞社からアーケード版スペースハリアーの基板が借りられた。そこで、この基板の YM-2203 からデータを吸い出す拡張ボードを作り、PC-8001mk2SR に入れた。この拡張ボードは、アーケード基板の YM-2203 に書き込みがあると、どのレジスタに何と言う値が書き込まれたのかを SRAM に記録し、PC-8001mk2SR で調べられた。
この拡張ボードのお陰で、88SR 用スペースハリアーの音は、かなり似たようなものができた。
しかし、問題も多かった。
アーケード基板では、爆発音や英語の音声などはサンプリングした音を鳴らしていた。更に凄いと思ったのは、BGM に使っているベースの音もサンプリングの音だった。これは真似しようがない。88SR には D/A 変換で音を鳴らすような回路は持っていなかった。仕方が無いのでこれらの音は YM-2203 を駆使して、音を作り、鳴らした。

やっと 88SR 用のスペースハリアーが完成し、電波新聞社から発売された。このとき、SHARP X1 版のスペースハリアーも同時に発売された。ちなみに、X1 版スペースハリアーを作ったのは私の高校の友人で、今でも付き合いが深い。


88VA には、uPD9002 という専用の 16bit CPU が使われており、これの中身は NEC の V50 に Z80 エミュレーション機能を盛り込んだ CPU であった。

当時、16bit パソコンは PC-9801 シリーズが全盛であった。
その PC-9801 シリーズ上で、8bit の DOS である CP/M を動作させる拡張ボード PLUS 80 がカノープス電子より発売されていた。メガソフトの EM/3+ と組み合わせれば、PC-98 上で CP/M を使って 8bit パソコンのソフトが開発できた。
一つのディスク内に MS-DOS と CP/M のソフトが入れられて、MS-DOS 上で CP/M の M80 アセンブラなどが動いた。つまり、MIFES で PC-8801mk2SR のソフトを容易に開発できたのである。CP/M には使い易いエディターがなかったので、PLUS 80 と EM/3+ の組み合わせは大変便利だった。
88VA の CPU uPD9002 には、Z80 エミュレーション機能が入っているので、PLUS 80 が無くても EM/3+ だけで上記システムが動作するかな? と半信半疑で動かしたら、何の問題も無く動作した!
これで 88VA の 自作 MS-DOS で CP/M のソフトが使えるようになった。しかし、今更 Z80 のソフトは作る必要も無く、この頃は既に 8086 にどっぷり浸かっていた。(セグメント使いづれぇ〜)


専門学校の展示会に、クラスで展示物を出すこととなった。何か面白いものができないかな?ということで、スペースハリアーのキャラクターを勝手に使って、88VA 用のジャンケンゲームを作った。
ジャンケンゲームは、擬似3Dで、画面の奥から敵キャラが迫ってきて、一番前まで来ると、ジャンケンをしよう、とメッセージが出る。画面の前のお客さんが、グー・チョキ・パーのカードのどれかをカードリーダーに挿入すると、敵キャラとジャンケンができる、という簡単なものだった。
ジャンケンに勝って敵キャラを倒し、最後の親玉にも勝てばお客さんの勝ち!で、そこそこ盛り上がった。
通なお客さんからは、88VA でスペースハリアーが作れそうですね、とも言われたが、実際のところは描画スピードが遅くてスペースハリアーの移植は無理だと思っていた。88VA は画面が綺麗になったぶん、描画するデータも増えたので、CPU の負担も増えた。実際、CPU は 16bit にはなったものの、速度は 8MHz とあまり速くなく、320x200 256色でスペースハリアーをやろうとするのは無理だった。ゲーム速度が遅いのはスペースハリアーではない!と思っていたので、真剣には検討しなかった。(色を16色にするなどすればできたのかもしれないが、88VA なのにこの出来栄え〜?なんて、苦労して作ってから言われるのがイヤだった)


社会人1時代

ラッキーなことに、私の就職活動はバブル末期(崩壊寸前)だったので、運良く某電気会社関連会社(現在は合併して名前が変わってしまった)に就職できた。

所属先は自動車関係のソフトウェア開発グループだった。免許を取ってから自動車に興味津々だった私にとっては最高の配属先であった。(と、当時は安易に考えていた。。。)
学生時代は Z80 や 8086 といった CPU ばかりをイジっていたが、職場では組込み機器に多く使われる、シングルチップマイコンという CPU を良く使った。
シングルチップマイコンは早い話が CPU に 8255 や 8253 (古過ぎ!?)などに相当するの周辺回路を一つのチップにまとめたマイコンのことだ。このマイコンを使って、自動車メーカーに納品する評価ボードのソフトウェアなどを作っていた。言語はアセンブラだったので、学生時代の経験が大いに発揮でき、開発は楽しかった。


とある時期に、自動車メーカーへ納品する LSI の設計に借り出された。LSI なんて作ったこと無いぞ〜!?と思いながらも仕事を始めると、回路設計は思った以上に楽しいものだった。
当時は紙に等価回路を書き、それを CAD に入力して、シミュレーションパターンを作成し、回路全体の動作をシミュレーションで確認する、といった作業が延々と続いた。
仕事で使うマシンはパソコンではなく EWS (エンジニアリング・ワーク・ステーション)というパソコン高性能版、といったマシンだった。OS は unix だ。unix は昔から知っていたが、使ったことは無かった。が、CP/M や MS-DOS を使ってきた私にとっては、何の抵抗も無く使えた。というより、unix が一番使い易かった。それもそのはず CP/M も MS-DOS も unix を真似して作られたというのだから納得がいく。今でも仕事で Linux は良く使っているが、LSI 設計で unix を使った経験が、ここでも活かされている。

また、当時驚きだったのが、LSI の回路記述言語 Verilog-HDL だ。Verilog は、LSI の回路を C言語のようなテキスト文で書く言語だ。これには驚いた。回路図がプログラム?になったみたいだった。(プログラムではないのだが)
設計した LSI は無事に完成したのだが、バブル崩壊の影響?により自動車メーカーが LSI の採用を見送ってしまい、大口の商談はお流れとなってしまった。せっかく作ったのに・・・。


当時、エレクトロニクスショー(通称:エレショー)という展示会が年1回あった。私が所属していた自動車グループからも、デモ機材を展示することになり、設計に借り出された。
この年のエレショーには、自動車用マイコンを使って、自動車のオートクルーズ装置を展示しようと、チームを組んで開発した。
私が担当したのは、PC-98 で車のキャラクターを表示し、山や谷を上り下りする3D表示の画面を作ることだった。これにはスペースハリアーの技術がモロに活きた。スペースハリアーで使った地面描画の方法を応用して、PC-98 でスペハリっぽい画面を作って、そこに車を合成して走らせた。外部から入力するアクセルの動きに対して、画面のスクロール速度を変えたりして、それっぽく仕上げた。


まだ放送開始前だったが、とある電機メーカー向けの「見えるラジオ」(FM文字多重放送)受信機の制御ソフトを開発した。
見えるラジオとは、FM放送の電波にデジタルデータを乗せて、ラジオで流れている曲名などの文字情報や図形情報などを放送するものだ。当時は「こんなの流行るのかな〜?」と半信半疑だったが、案の定、流行らなかった。
FM文字多重放送の規格書を片手に、受信したデータをデコードしてメニュー情報や番組情報などに分類し、漢字ROMから漢字フォントデータをグラフィックメモリへ転送して・・・などのプログラムを作った。
使ったワンチップマイコンは 16bit CPU で、メモリ空間も1Mバイト(だったと思った)あったので、アセンブラでも容易に作れた。
少し頭を悩ませたのがデータの管理方法である。見えるラジオは音声番組に連動した文字情報の他に、メニュー表示に基づいて受信(蓄積)した情報を表示する文字情報があった。文字情報は電波で小分けに受信するので、どのパケットがどの情報の何番目のデータなのか等、管理するのが大変だった。そこで、MS-DOS の FAT のような仕組みを導入し、メモリを多数のセクターに分割して、空き情報を FAT で管理した。また小分けに受信したデータに情報番号とデータ番号を付け、FAT を参照しながら空きメモリに情報を蓄積するようにした。これらの手法を導入したことで、データやメモリが管理し易くなった。
開発は「カスタマールーム」と呼ばれる個室に篭もり、黙々と続けられた。毎日 FM-TOKYO を聴きながら開発していたので、当時流行していた岡本真夜Tomorrow を、カスタマールームで何度も何度も聴いた。お陰で岡本真夜のファンになり、アルバムは数枚持っている。


社会人2時代

ふとしたことから、某自動車会社に転職することができた。

配属されたのは自動車の電装部門だった。
運転免許を取得してから、過酷なドライブや無謀な車いじりをしてきた私にとって、自動車の制御プログラムを作ることは一度は経験したい仕事の一つだった。
機密の関係上、あまり公にできないのが残念だが、初代のこれの車載ユニットを開発したり、ナビゲーションシステムや北米車の緊急通報システムの開発をしたりした。緊急通報システムの仕事ではアメリカ出張の経験を得た。
生まれて初めての海外であったが、アメリカには衝撃を受けた。人生の考え方が変わった、と言っても過言ではないくらいである。私がそれまで知っていた世界はとても狭かったことを痛感させられた。
アメリカには長期・短期を全て数えると十数回出張した。出張中の逸話や失敗談などはここでは暴露しないことにするが、最も印象に残っている経験というかお話をいくつか。

1.アメリカは日本を大勢の中の一国としてしか見ていない?

これはアメリカのメーカーさん(アメリカ人)と飲みに行ったときのこと。
多くの日本人は、今のアメリカ大統領の名前くらい知っていると思う。今ならオバマさんだ。(出張当時は誰だったかな?)
それでは、と、アメリカ人に「今の日本の首相は誰か知っている?」と聞いてみた。そしたら、誰一人として答えられなかったのである。ポケモンとかは知っていたのに・・・だ。
このとき思ったのは、「あぁ、アメリカの人から見れば、日本なんて数ある国の中の一つにしか過ぎないんだなぁ」ということだった。
ブータンの人には申し訳ないが、私はブータンの国王?の名前を知らない。それと同じような感じなのかもしれない。
日本はアメリカのことをよく見ているつもりなのだが、アメリカはそうではないのね、ってことですな。

2.アメリカは世界のリーダー? リーダーはどこにいる?

世界でのアメリカの存在は大きい。
政治、経済、軍事、宇宙開発、コンピューター、等々、世界を引っ張ってきたのはアメリカ、新しい物を産み出してきたのはアメリカ、世界の指導者アメリカ、という国である。
そんな思いが私の頭にあったため、アメリカの人々はさぞかし頭が良く、誰もが皆リーダーのような人々ばかりなのだろう、などと、勝手な思い込みがあった。私が関わってきたコンピューターの世界が、あまりにも「アメリカ発」の物が多かったからかも知れない。
マイクロソフト、インテル、モトローラ、アップル、テキサスインスツルメンツ、・・・・・、数え始めたらきりが無いくらいだ。
ところが、だ。
いざアメリカに行ってみると、誰もが普通だ。世界のリーダー的なアメリカ人ではない。職場では、アメリカ人は良く働くか?と言えば、残業しているのは日本人ばかりで、アメリカ人(全ての人ではないが)は定時にはとっとと帰宅してしまう。もっとも、仕事ができる・できない、の判断は残業とかではなく、アウトプット(結果)なのだが。
ん〜? 世界のリーダーは一体どこにいるんだろうなぁ?と、現地のアメリカ人に質問してみた。そしたら、「ハハッ、それはアメリカのごく一部の人達だよ。アメリカ人全員がリーダーじゃないよ」との答えだった。(英語での会話だったので、大体こんな意味だったろう)
なるほど・・・と思いながらも、その一部のアメリカ人がいるから、世界のリーダーに成り得るのか。やっぱりアメリカは凄いな、などと思った。

そんな貴重な海外出張の経験ができたにも関わらず、恩知らずに突然退職し、現在に至る・・・のである。




トップページ 開発者より 関連リンク
Copyright (C) 2021 Kazuhisa Ishida All rights reserved.